沖縄の大社 安里八幡宮
はいた〜い ぐす〜よ ちゅうがなびら
いらぶちゃー(魚)ってしってます?
雄と雌の色が全く違います。雄が青で、雌が赤。又この魚夜は粘膜を貼って寝る特技を持ってます。歯も丈夫で珊瑚など硬いのも噛み砕く程です。
今回は、沖縄の神社 八社の安里八幡宮に行ってきました。
⚫️安里八幡宮(あさとはちまんぐう)は沖縄県那覇市安里(住所 → 沖縄県 那覇市安里124)にある神社。琉球八社の一つで、明治の近代社格制度では無格社。
八社の中で唯一の八幡宮
応神天皇、神功皇后、玉依姫命を祀る。
他の7社は全て熊野権現を祀っています。
歴史
康熙52年(1713年、和暦では正徳3年)に成立。『琉球国由来記 巻11 密門諸寺縁起』〔八幡大菩薩〕の段にある「勧請由来」では、当社の開基を天順年間(1457年 - 1464年)であるとし、その創始について次のような伝承を記してあります。
第6代琉球国王尚徳王の御代、兵を遣わして喜界島を討伐を命じた。喜界島は小島であったが、王に従わないため討伐を命じたとされてます。
この時、村の老人が「王が直々にお出向きになれば、有利になること疑いありません。何故なら猟犬は後ろに人があってこそ進みます、兵も同じだからです」と言った。この話を聞いた王は戦旗を上げ出陣。出陣の門出、城の麓に水鳥がいた。王は矢をつがえ、「今我軍が有利であるならば、この鳥をすみやかに射落とせよう」と誓って言うと、一本の矢を地に立て、矢を放った。矢は見事、鳥を射止めた。それから、王は帆を上げ出航した。喜界島へ向かう海路、今度は小鐘が海面に浮いてきた。船人達がこれを取り上げると遠ざかるが、船の傍らより離れることはなかった。しかし、王が「この戦に利があるなら霊鐘わが手に入るべし。帰国の後は八幡大菩薩を崇めるべし」と誓って右手を出すと、鐘は簡単に手に入ったという。王は歓喜して輿を造って御座船に勧請し、祭祀をおこなった。王は本懐を遂げて帰国すると、矢を立てた場所に霊社を建て、浮鐘と神通矢を垂迹として八幡大菩薩と号し奉じた。
安里八幡宮は真言宗8公寺の一つである神徳寺(現在も道路を挟んだ安里八幡宮の南西側に位置)に併置の神社として、官社の制により琉球八社とされた。官社へは王府から神職の役俸並びに営繕費が支給されたが、安里八幡宮へは神職として祝部・内侍・宮童が置かれた。また、祝部・内侍が神楽の際に着用する服装は全て王府の寺社座から支給を受けていたそうです。
明治時代に入り、 琉球処分により琉球王国が廃され沖縄県が置かれると、安里八幡宮は近代社格制度により無格社とされた。『琉球宗教史の研究』によれば、沖縄県行政府では当社を村社にすることを立案、経済的な理由から村社列格が出来ず、社殿その他の設備においても不備な点が多く村社列格が事実上不可能であるとし、無格社として残置。追々維持拡張整備し村社に引き直す根基を充実するよう努めることになったとしている。
さらに『琉球宗教史の研究』によれば、当時地元の民衆と信仰的に直接結合していたのは御嶽拝所であり、無格社となり日本政府の経済的保障がなかった安里八幡宮は、経済的にも信仰的にも見るに耐えない無残な状態を呈することとなり、昭和14年度に沖縄県振興事業に取り上げられたときには、明治末頃まで美麗な姿を留めていた拝殿は倒壊消滅して礎石のみが残り、本殿は腐朽破損が甚だしくて東方に傾斜したのを4~5本の支柱で支えている有様でした。その支柱もシロアリの被害が甚大で、屋根は長年の暴風雨で破壊されて参拝者の生命に危険を及ぼす恐れがある状態でした。その後、昭和19年(1944年)10月に沖縄戦で被災全焼し、戦後に再建されたのが現在の社殿となってます。
安里八幡宮に併設して、現在は保育園が併設されてます。
子供達の明るい声が、響く素敵な場所となってます。
次回は金武宮に行ってみたいと思います。
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