沖縄の謎 お墓編
はいさい ぐす〜よ ちゅうがなびら
すこし、寄道^_^
今回は、沖縄の謎にトライ(笑)してみたいと思います。なぜ??沖縄の墓は大きいのだろう??
そんな疑問に悩んだ事はないだろうか。
沖縄のお墓には大きく分けて3種類あります。これらのいずれも、本土のお墓に比べればかなり大きく、本土の方が見ればとても珍しいと思います。
①亀甲墓(きっこうばか、かめこうばか、カミヌクー)
亀甲墓は、中国南部でも見られることから、中国から伝来したと考えられています。台湾や香港など、その昔に大陸の影響を大きく受けたところでは多く見られるようです。
②破風墓(はふばか、ハフー)
破風墓は、元来琉球王国の王室のみが造成してきた形の墓で、通常本土の住宅のような三角に尖った屋根を持ちます。最も有名な墓に、「玉陵(たまうどぅん)」があります。
1879年に廃藩置県があり、それによって一般人が造成することが解禁され、数が増えていったそうです。
③屋形墓(やかたばか、ヤーグァ)
屋形墓は、基本的には破風墓と同じですが、屋根の形状が若干違うようです。
とっ3つの墓についての説明はさて置き。
*なぜ墓が大きくなっていったのか、という部分ですが、これは沖縄で昔行われていた埋葬法によるものが大きく関係しております。沖縄では昔、「風葬」という埋葬法が主流でした。風葬とは、遺体を墓の石室内に数年間安置し、風化を待ちます。その後、親族が洗骨し骨壷に納骨し、再び石室内へ収めるという方法です。遺体をそのまま石室内に入れるために、墓がどんどん大きくなっていったのでした。
まぁ現在では、風葬はほぼ全く行われていないため、墓が小型化する傾向にありますが、それでも本土の墓に比べれば遥かに大きいですね。
又、土地の少ない沖縄では、昔は家の敷地内に墓を立てる習慣があったので、住宅街にいきなり墓地が出現する、というのも珍しくありません。近場に公園などの遊び場がなければ、墓地で鬼ごっこをして、墓の上を走り回ったりする光景が見れたり(笑)他には、飲み会をするときに場所がないなどで墓でやったり等、沖縄県民にとってはとても馴染みが深く、親族にとっては、一番先祖を身近に感じられる場所となってます。。。
シーミーの時には墓の前にムンチュー(門中→一族)があつまり、BBQをしたりと最近では沖縄の春の一大イベント会場にもなってます。
こんな風景も、当たり前に行われてます(笑)
☆し〜ぶん☆
沖縄の墓の歴史では、新石器時代になると明らかになってきます。
読谷村渡具知にある、木綿原(モメンバル)遺跡の墓地がそうであり。箱式石棺墓となって約2300年前の墓になり、同じ時代、読谷村波平の大当原(ウフドウバル)遺跡の洞穴からは土器に埋葬された痕跡が、発見されてます。
王朝時代に入ると代表的なものをあげておきます。
1262年
英祖王が極楽山に墓をつくる。
浦添ようどれ(洞穴囲込墓)
1439年
尚巴志が死去
天山陵(堀込墓:那覇市首里)
1458年
護佐丸がほろぶ
当初は岩穴囲込墓で、その後亀甲墓に改められる。(中城村)
阿麻和利がほろぶ
岩穴囲込墓(読谷村)
1501年
尚真王が、尚円王(金丸)を改葬
玉陵(破風墓:那覇市首里)
などが、沖縄の代表的な墓になります。
今回は、紹介できませんでしたが他にも石積墓(旧仲里村)や、ヌーヤ墓(竹富町新城島)、堀込墓(粟国村)、壁龕墓(今帰仁村運天)等の墓もあります。
これからも、沖縄の歴史を紹介していきますので、よろしくお願いします。
関連記事