ヒューの独り言

沖縄大好き!!ウルヴァリン。。。 歴史や時事ネタ、地域の情報を発信していきます。よろしくお願いします。

掲載についてのお詫びしーぶん(おまけ)

お詫び

はいさい!^ ^ぐす〜よ ちゅうぅがなびら

チャーガンジュですか??

最近は、仕事が忙しく更新が不定期になっており、ブログを見て頂いた方々にお詫びいたします。

まだまだ、忙しい時期ではありますが(笑)ゆっくりと更新して行きますので、変わらずのご愛敬よろしくお願いします。

歴史探索沖縄の昔話^ - ^

はいさい ぐす〜よ ちゅうぅがなびら

沖縄の県魚…皆さんご存知ですね。グルクン(和名:タカサゴ)です。

他の地方名では、アカムロ(高知)、メンタイ、アカメンタイ(和歌山)、チャムロ(三重)と呼ばれてます。
成魚の全長は30cmほどで、体は前後に細長い紡錘形をしている。頭部が小さく、サバやムロアジに似たスマートな体型で背と体側には黄色の細い縦線が2本あるが、体側の縦線が側線より下にあることで同属のニセタカサゴと区別できます。。尾鰭は大きく二叉し、上下の先端がそれぞれ黒い。
生体の体色は青緑がかっているが、夜の休息時、興奮している時、死んで水揚げされた時などは体の側面などが赤みがかり、極端に体色が変化します。そのため生体を見たことがない人には赤っぽい魚として認識されています。

グルクンの唐揚げ

美味しんだよね(笑)

さて、今回は沖縄の昔話しを紹介します。

歴史探索沖縄の昔話^ - ^

沖縄の昔話

はいさい ぐす〜よ ちゅうぅがなびら

皆さん、きじむなーをしってますか?

沖縄の妖怪(マジムン)で赤毛の陽気な子供のようかいです。魚のミンタマー(目玉)が大好きなキジムナー大気味ではブナガヤとも呼ばれてます。純粋な心を持つ子供には姿が見える不思議なマジムンガジュマルの木にすみ夜な夜な悪さをしているようです。

沖縄戦によって、ヤンバルの奥地に逃げたとも言われており、現在も見た人がいると証言があったり沖縄の不思議の一つになってます。

さて、今回は沖縄の昔話をしたいと思います。

那覇市の垣花(地名)という所に、『がじゃんびら』と呼ばれる坂道があります。
沖縄の方言で、『がじゃん』とは、蚊の事。『ひら』は、坂の事。
そう、その坂道は、標準語に直すと、『蚊の坂』ということなんです。
何故、そう呼ばれるようになったのか?その謎を解くお話になります。

ガジャンの話(蚊の話)もともと、沖縄にはガジャン(蚊)は住んでいませんでした。
昔、ある人が唐の国(中国)へわたりました。文化の栄えた国、唐では、見ること聞く事すべてめずらしいことばかりでした。
琉球(沖縄)にはない植物や動物もいっぱいありました。
ある日、その唐の国でめずらしい音をだすガジャン(蚊)という生物を、見て男は心を奪われてしまいました。
唐での用事も終わり、琉球に帰国する事になりその時、お土産にガジャン(蚊)を沢山持って帰ることにしました。
この琉球にない珍しい生き物のなき声を、皆に聞かせてやろうと思ったからです。
長い長い船旅の中でもこのガジャン(蚊)のなき声を聞き、楽しんでおりました。
やっと船は那覇の港につきました。男は、ガジャン(蚊)を入れた箱をかかえて垣花のヒラ(坂)を登って行きました。
この時、いままでないていたはずのガジャン(蚊)のなき声が聞こえなくなった事に気がつきました。「変だな?どうしたのだろう。」と立ちどまって、そっと蓋を開けてみました。そのとたん、ブーンとガジャン(蚊)がつぎつぎと飛び出してしまいました。あわてて蓋を閉じましたがもうあとのまつりです。
中にまだのこっているかな、とゆり動かしてみたのですが、まったくなんの手ごたえもありません。
全部逃げてしまったのかな、少しは残っていてくれているかな、と今度は用心に用心を重ね、そっと開けたとたん、また、ブーンと何匹か逃げてしまいました。中を確かめるともう一匹も残っていませんでした。
琉球のガジャン(蚊)は、これからひろがったという話です。このガジャン(蚊)を逃がしてしまった所を
今でも人々は「ガジャンビラ(蚊の坂)」と呼んでいます。

昭和54年6月20日発行
沖教組沖縄のむかし話編集委員会 
編著 「沖縄のむかし話」より。

『我謝坂:俗称(がじゃんびら)』
・・・那覇の市街地から、国道58号線を南へ下って明治橋を渡り、那覇港の軍施設を右に見ながら西へ進むと、右折すると那覇空港へ、もう一方は自衛隊那覇駐屯地に通じている二つの道にでます。
その分岐点あたりの地名を垣花(かきのはな 方言では、かちぬはな)
と言い、そこから自衛隊駐屯地手前までのなだらかな坂道の事を指します。

がじゃんびら公園からの夜景です。
綺麗ですよ。

歴史探索琉球八社

沖縄の大社 末吉宮

はいさい ぐす〜よ ちゅうぅがなびら

沖縄には面白い検定があります。(笑)もちろん沖縄検定もそうなんですが、沖縄市ではエイサー検定を開催してます。もし、興味のあるかたは受けて見て下さい。

さて、今回は琉球八社の一つを訪ねてきました。訪ねたと言うより、初詣に行ったんですけどね。(笑)

⚫️末吉宮(すえよしぐう)
住所:沖縄県那覇市首里末吉町1-8
沖縄県那覇市首里末吉町の末吉公園内にある神社で琉球八社のひとつ。
旧社格は無格社。

祭神
主祭神として以下の熊野権現を祀っており
伊弉冉尊 (いざなみのみこと)
速玉男尊 (はやたまをのみこと)
事解男尊 (こよさかをのみこと)
また、別鎮斎として以下の神を祀っています。
土祖神 (つちみおやかみ)
澳津彦命 (おくつひこのみこと)
澳津姫命 (おくつひめのみこと)
産土神 (うぶすなのかみ)

由緒
1713年、和暦では正徳3年に成立した
『琉球国由来記 巻11 密門諸寺縁起』の〔大慶山万寿寺〕の段にある「大慶山権現縁起」では、当社の開基を景泰年間1450年 - 1457年としている。

⚫️俗に「社檀」と称し、「冊封使録」には末吉一帯の丘陵を「亀山」と呼称した。
「大慶山権現」「末吉権現」「末吉神社」等の記録も見られる。
社は尚泰久王時代(一四五四~六〇)に首里の天界寺僧鶴翁が大和での修業中、熊野権現を崇信、学問成就せばさらに参詣することを誓った。帰国後参詣を願い出ても国王が許さなかった。あるとき、夢に熊野権現が現れ、これより北方の山に大声で呼び、応ずるところがあれば霊験ありという。果して前山に応ずる声があったが、そこは険阻で人跡のおよぶところではない。登る途中一鬼面出現したので、鶴翁叩首九拝する。その旨を国王に言上すると同様の霊夢があったという。そこで神社をその地に創建、鶴翁が見つけた古鏡を宮内に蔵した。本殿は三間社流造り本瓦茸で磴道も含め昭和十一年国宝に指定されたが、沖縄戦により破壊された。
現在の社殿は末吉公園内にあるため車の便は悪いが緑の多い森林に囲まれた景勝地である。

『琉球神道記 巻第5』の「末好権現事」にも、ほぼ同様の内容が記載されている。

琉球八社とされた。官社へは王府から神職の役俸並びに営繕費が支給された。当社へは神職として祝部・内侍・宮童が置かれ、また祝部・内侍が神楽の際に着用する服装は全て王府の寺社座から支給を受けた。
明治時代に入り、 琉球処分により琉球王国が廃され沖縄県が置かれると、近代社格制度により無格社とされた。

さらに『琉球宗教史の研究』によれば、当時地元の民衆と信仰的に直接結合していたのは御嶽拝所であり、無格社となり日本政府の経済的保障がなかった当社は、その後経済的にも信仰的にも見るに耐えない無残な状態を呈することとなり、昭和14年(1939年)の沖縄県振興事業による復興計画に取り上げられた時には、拝殿は失せ、沖宮とともに昭和11年(1936年)国宝の指定を受けていた三間社流造の本殿も、屋根瓦はほとんど落ち、三方垂木のうちニ方が失せ、全体的に腐朽荒廃してる状況であった。

しかし、この本殿も激しい沖縄戦の中で砲撃を受け、建物の礎石、柱2本と虹梁を残し爆散してしまった。
現在見ることが出来る社殿は、残った礎石と資材を基に昭和47年(1972年)復元したものである。





るーちゅいむにー(独り言)しーぶん(おまけ)

台風について

はいさい ぐす〜よ ちゅうがなびら

今回は、少し思考を変えて沖縄の歴史から離れ自然について話をしたいと思います。まっ沖縄にはこいつは毎年やってきては、色々な被害や恩恵をもたらすで深く関わりもあるんですが…今回は台風についてです。


⚫️台風のなまえの由来
日本では、古くは野の草を吹いて分けるところから、野分(のわき、のわけ)といい、11世紀初頭の『枕草子』『源氏物語』などにもその表現が出ています。沖縄のウチナーグチでは「カジフチ(風吹き)」または「テーフー(台風)」と呼ばれ、フィリピンでは「バギョ (bagyo)」と呼ばれています。
江戸時代には熱帯低気圧を中国にならって颶風(ぐふう)と訳した文献(伊藤慎蔵によってオランダ語から翻訳された日本初の気象学書「颶風新話」)があり、明治の初めにはタイフーンまたは大風(おおかぜ)などと表していました。
現在の台風という名は、1956年の同音の漢字による書きかえの制定にともなって、颱風と書かれていたのが台風と書かれるようになったものであるが、その由来には諸説あります。

1.ギリシャ神話に登場する恐ろしく巨大な怪物テュポン (τυφων, Typhon) に由来する「typhoon」から「颱風」となった。
2.ペルシア語で、嵐を意味する「tufan」が東洋に伝わり、「颱風」となった。また、英語では「typhoon」(タイフーン)となった。
3.中国広東省で、激しい風のことを台风(Táifēng、タイフン)といい、その後、西洋に伝わり、ギリシャ神話のテュポンの影響でギリシャ式の"typhoon"というつづりで書かれるようになり、東洋に逆輸入され「颱風」となった。
4.沖縄(当時は琉球)でつくられた言葉とする説:久米村の気象学者『蔡温』の造語であるといわれる。

英語の「typhoon」は、古くは「touffon」と綴り、中国語の「大風」が由来とする説は不自然とされており、アラビア語起源、ギリシャ語起源の二つの説が有力となってますが、ウチナーンチュの私としては、4の『蔡温』がつくった造語で有ってへ欲しいと切に願ってなりませんが、皆さんはどちらと思いますか。。??

次は、、、、

しーぶん(おまけ)

沖縄の謎 お墓編

はいさい ぐす〜よ ちゅうがなびら
すこし、寄道^_^
今回は、沖縄の謎にトライ(笑)してみたいと思います。なぜ??沖縄の墓は大きいのだろう??
そんな疑問に悩んだ事はないだろうか。

沖縄のお墓には大きく分けて3種類あります。これらのいずれも、本土のお墓に比べればかなり大きく、本土の方が見ればとても珍しいと思います。

①亀甲墓(きっこうばか、かめこうばか、カミヌクー)
亀甲墓は、中国南部でも見られることから、中国から伝来したと考えられています。台湾や香港など、その昔に大陸の影響を大きく受けたところでは多く見られるようです。






②破風墓(はふばか、ハフー)
破風墓は、元来琉球王国の王室のみが造成してきた形の墓で、通常本土の住宅のような三角に尖った屋根を持ちます。最も有名な墓に、「玉陵(たまうどぅん)」があります。

1879年に廃藩置県があり、それによって一般人が造成することが解禁され、数が増えていったそうです。


③屋形墓(やかたばか、ヤーグァ)
屋形墓は、基本的には破風墓と同じですが、屋根の形状が若干違うようです。

とっ3つの墓についての説明はさて置き。

*なぜ墓が大きくなっていったのか、という部分ですが、これは沖縄で昔行われていた埋葬法によるものが大きく関係しております。沖縄では昔、「風葬」という埋葬法が主流でした。風葬とは、遺体を墓の石室内に数年間安置し、風化を待ちます。その後、親族が洗骨し骨壷に納骨し、再び石室内へ収めるという方法です。遺体をそのまま石室内に入れるために、墓がどんどん大きくなっていったのでした。

まぁ現在では、風葬はほぼ全く行われていないため、墓が小型化する傾向にありますが、それでも本土の墓に比べれば遥かに大きいですね。
又、土地の少ない沖縄では、昔は家の敷地内に墓を立てる習慣があったので、住宅街にいきなり墓地が出現する、というのも珍しくありません。近場に公園などの遊び場がなければ、墓地で鬼ごっこをして、墓の上を走り回ったりする光景が見れたり(笑)他には、飲み会をするときに場所がないなどで墓でやったり等、沖縄県民にとってはとても馴染みが深く、親族にとっては、一番先祖を身近に感じられる場所となってます。。。

シーミーの時には墓の前にムンチュー(門中→一族)があつまり、BBQをしたりと最近では沖縄の春の一大イベント会場にもなってます。

こんな風景も、当たり前に行われてます(笑)

沖縄の偉人

沖縄の偉人を尋ねて

はいさい ぐす〜よ ちゅうぅがなびら

台風1号がフィリピンで発生したと先週新聞で読んだんですが、今年は台風の被害が少ない年なのか?多い年になるのか?
でも、台風って楽しくないですか?うちは、台風が来ると毎回とーちゃんがヒラヤーチィーをつくってくれて、それが楽しみだったな(笑)
あっ台風の仕組みを少し紹介。

「台風には従来、米国が英語名(人名)を付けていました、北西太平洋領域で発生する台風防災に関する各国の政府間組織である台風委員会(日本ほか14カ国等が加盟)は、平成12年(2000年)から、北西太平洋領域で発生する台風には同領域内で用いられている固有の名前(加盟国の言葉で動植物や自然現象に関係する名前)をつけることになりました。」
どうりで、アジアンな名前の台風が多いわけですね。(笑)
アジア圏各国+米国の動植物(現地名)でいこうってわけなんです。
「平成12年に台風第1号にカンボジアで「象」を意味する「ダムレイ」の名前が付けられ、以後、発生順にあらかじめ用意された140個の名前を順番に用いて、その後再び「ダムレイ」に戻ります。台風の年間発生数の平年値は26.7個なので、約5年間で台風の名前が一巡することになります。」

さて、今回は沖縄の歴史を学ぶには欠かせない方。沖縄学の父についてお話しします。

伊波 普猷(いは ふゆう)

生1876年(明治9年)3月15日 - 亡 1947年(昭和22年)8月13日)
沖縄県那覇市出身の民俗学者、言語学者、沖縄学の父として知られる。

経歴
1876年3月15日、伊波普猷は琉球藩那覇西村(現在の那覇市西)に父普済・母マツルの長男として出生まれる。

1903年(明治36年)、第三高等学校を卒業した後、東京帝国大学で言語学を専攻する。帝大では、橋本進吉、小倉進平、金田一京助らの学友とともに、新村出の講義を聴講している。

帰郷後、沖縄県立図書館の館長を務める。沖縄研究資料の収集に尽力した。
歴史学者の比嘉春潮とともに、エスペラント学習活動を、教会では聖書の講義などを行った。
弟伊波月城は、沖縄毎日新聞の新聞記者として文明開化の為に活動した。

学問の領域は広大で、沖縄研究を中心に言語学、民俗学、文化人類学、歴史学、宗教学など多岐に渡る。その学問体系によって、後に「沖縄学」が発展し、「沖縄学の父」とも称された。

『おもろさうし』研究への貢献は多大で、琉球と日本とをつなぐ研究を行うと共に、琉球人のアイデンティティの形成を模索した。「日琉同祖論」はその探究の一つである。しかし、例えば鳥越憲三郎は『琉球宗教史の研究』において、伊波の「琉球研究の開拓者としての功績は大いに讃えられて然るべきである」と評する一方、その研究について「文献に偏重し、加うるに結論を出すに急であったために、幾多の論理的飛躍と誤謬とを犯したことも事実である」と指摘している。
また、伊波の思想の欠点は、近代日本が産み出した沖縄差別への批判が弱かったことで、そのため、沖縄人としての生き方に誇りをみいだすことにおいて、一定の成果をあげたが、結果として天皇制国家に沖縄をくみこむための政策に利用されることになった。
民俗学者の柳田國男や折口信夫、人類学者の鳥居龍蔵、思想家・経済学者の河上肇らと親交があった。そして、友人の東恩納寛惇が浦添城跡の顕彰碑に刻んだ言葉が伊波を物語る。

彼ほど沖縄を識った人はいない 彼ほど沖縄を愛した人はいない 彼ほど沖縄を憂えた人はいない 彼は識ったが為に愛し愛したために憂えた 彼は学者であり愛郷者であり予言者でもあった。

沖縄の偉人

沖縄の偉人を尋ねて

はいさい ぐす〜よ ちゅうぅがなびら

寒いですね、巷ではノロウイルスやロタウイルス、インフルエンザ、新型まで流行り病が蔓延。手洗い うがい マスクの着用 消毒など常日頃から健康管理していきましょう。そういう私は(T ^ T)先週から原因不明の目の腫れに悩まされているんですが…

さて、今回は沖縄の偉人についてです。できれば彼のゆかりの地を訪ねたかったんですが目の件もあり、遠出ができず時間が空いた際に尋ねて行こうとおもいます。

⚫️高嶺 徳明(たかみね とくめい)

17世紀中盤から18世紀前半にかけて活躍し、日本初の全身麻酔手術に成功した琉球の名医です。皆さんしってましたか?私は調べてビックリしました。
昭和56年、当時の弘前大学助教授・松木明知氏は、日本最初の全身麻酔医手術は、1689年、琉球王国の医師、高嶺徳明によって行われたと調査、発表しまし医学界に注目をあびました。
これまで日本初と言われた、1804年の紀州和歌山の医師、華岡青洲の手術よりさかのぼること115年前になるのです。

幼少のころから語学の才能に秀でていた徳明は、総官という進貢船の事務職をつとめ、中国と琉球を往来するという生活を続けていました。

当時、国王尚貞の孫・尚益は、生まれながらの欠唇の持ち主でした。 徳明36才の時、福州で中国人医師・黄会友(こうかいゆう)が補唇治療を行っている事が進貢使節の耳に入り、中国語を完璧に理解する徳明に、補唇の技術を取得することが命じられます。徳明は黄会友に懇願して弟子入りを果たし、秘法と秘伝の巻物を授けられて帰国します。1689年11月に、尚益の手術をとり行いました。手術は大成功で、尚益の子供ですら傷跡に気付かなかったと言われています。
『琉球王国 人物列伝』より抜粋

さらに、詳しく調べた内容を記載して行きます。

歴史探索しーぶん(おまけ)

第一尚氏の墓

はいさい ぐす〜よ ちゅうがなびら
ムーチーって皆さんしってますよね。
旧暦の12月8日は、「ムーチー」と言って沖縄では餅(ムーチー):月桃の葉に包んで蒸した餅を作って食べ、厄払いする日です。またこの時期が1年中で最も寒さが厳しい時期になり、この頃の寒さのことを「ムーチービーサ」と呼び季節を表す言葉ともなってます。




さて、今回はし〜ぶんで琉球の歴史に触れたいと思います。 その中でも、第一尚氏歴代の王の墓について、はなしをしたいと思います。

第一尚氏の国王7人のうち、墓所が明確なのは次の5人となります。

(初代)尚思紹/南城市佐敷の自衛隊の敷地内

(第二代)尚巴志(第三代)尚忠(第四代)尚思達/読谷村伊良皆の米軍基地内

(第六代)尚泰久/南城市玉城

の5人は場所が特定されております。
しかし、残り二人の墓所が不明(第五代)尚金福と(第七代)尚徳なんです。

⚫️王統が第二尚氏に移った後、第一尚氏の王族は首里を追われました。第一尚氏の墓所は、首里周辺にありましたが、第二尚氏(金丸)に墓を破壊されたり、遺骨を奪われたりすることを恐れ、第一尚氏の王族や家来が、遺骨を他所に移していったのです。

尚金福と尚徳の墓は、(幸いにも)誰にもしられない場所に移されたか、(不幸にも)破壊されたかのいずれかなのでしょう。もし、見つかることがあれば紹介をして行きたいと思います。

クーデターにより、第二尚氏の始祖となった金丸(尚円)は、琉球王国の王となり権力を手中に納めましたが、なぜ?第一尚氏の王の墓を丁重に扱っわなかったのか?
金丸は、第一尚氏の痕跡が残ることを嫌ったと言われてますが当時の世の中の動きを知る事で、なぞが紐解かれていければと思います。(;^_^A

しーぶん(おまけ)沖縄の昔話^ - ^

マブイ込みの始まり

はいさい ぐす〜よ ちゅうがなびら
沖縄の桜は1月が開花の時期になります。
各地では、桜祭りが開催されて行きます。あっ知ってますか?沖縄の桜は北から南に開花して行くんですよ。^_^




さて、今回はマブイ込みのはじまり(≧∇≦)について紹介したいと思います。
マブイ(魂)が落ちる?(笑)?

昔からびっくりするとマブイを落とすといいます。
そんなマブイについての話になります。

むかし昔沖縄は、琉球と呼ばれる国でした。琉球は、小さい国でありながら中国や東南アジアの国々と貿易を行い栄えた国でありました。
その琉球は、昔から頭のいい人を選んで学問を学ばせるために、中国へ行かせていました。
この話は、タルーという親思いの子とお母さんとの絆の話になります。

親子2人で暮らす、賢い子タルー。
そんなタルーにお城から中国行きの話しが来たのです。
お母さんはタルーの身を大変心配し中国行を反対しました。、 しかし、タルーの決心は固くお母さんを説得し留学する事になりました。

・お母さん
先生や先輩のおっしゃることを良く聞いて、無事に帰ってくるのよ。この手ぬぐいはお守りです。
・タルー
琉球のためにがんばってきます。

母は庭にあった石を拾い、その石を今日から息子、タルーだと思うことにしました。
・お母さん
タルー、朝ご飯ですよ。
タルー、お昼ご飯ですよ。
タルー、夕飯ですよ。
今頃、お前は何をしているんだい?
等、石に話しかけるようになっていきました。

無事、中国に着いたタルーは、一生懸命に勉強に励みました。

ある日、山へ同僚と出かけたタルー。途中雨が降り出しました。

・タルー
雨が降ってきた。
・先輩
あの洞窟に避難しよう。
・母の声
雨が降ってきた。
・タルー
えっ?
・タルー
あやー!?
・先輩
何言ってる?ここは中国だ。お母さんがいるわけない。

しかしタルーにはお母さんの声が聞こえたのです。

・母の声
タルー、タルー、タルー。
・タルー
あやー!!
・先輩たち
ダメだ!

次の瞬間・・・3人は
ひゃー!!雨で山の斜面が崩れ、にげこもうとした洞窟が埋まってしまったのです。

・先輩
タルーのお母さんが助けてくれたんだ!
・タルー
おかぁ〜が助けてくれた・・・3人は大雨の中、無事に山を下りました。そして、先生にこの出来事を話しました。
・先生
お母さんがあなたを思う気持ちが、遠く中国まで届いたのですね。

無事、琉球に帰ったタルーは、お母さんが小石に自分の名前をつけて呼んだり、毎日ご飯を作ってくれた事を知り、改めて母の優しさを知りました。

沖縄では驚くと「マブイを落とす」といいます。
マブイとは魂の事。マブイを落としたら小石3個と水、料理を置いてこう言います。

『マブヤー、マブヤー、うーてぃくーよー』
『ウヤヌ フチュクルヤ ユユマンデー』
親の懐(想い)は世万代
子供を想う親の心は、いつどこにいても伝わるってことだよ。

この話が、元になったかは(笑)分かりませんがマブイを落とすと必ずこのおまじないを行うのが風習です。

参考になれば、幸いです。
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