沖縄の偉人
沖縄の偉人を尋ねて
はいさい ぐす〜よ ちゅうぅがなびら
台風1号がフィリピンで発生したと先週新聞で読んだんですが、今年は台風の被害が少ない年なのか?多い年になるのか?
でも、台風って楽しくないですか?うちは、台風が来ると毎回とーちゃんがヒラヤーチィーをつくってくれて、それが楽しみだったな(笑)
あっ台風の仕組みを少し紹介。
「台風には従来、米国が英語名(人名)を付けていました、北西太平洋領域で発生する台風防災に関する各国の政府間組織である台風委員会(日本ほか14カ国等が加盟)は、平成12年(2000年)から、北西太平洋領域で発生する台風には同領域内で用いられている固有の名前(加盟国の言葉で動植物や自然現象に関係する名前)をつけることになりました。」
どうりで、アジアンな名前の台風が多いわけですね。(笑)
アジア圏各国+米国の動植物(現地名)でいこうってわけなんです。
「平成12年に台風第1号にカンボジアで「象」を意味する「ダムレイ」の名前が付けられ、以後、発生順にあらかじめ用意された140個の名前を順番に用いて、その後再び「ダムレイ」に戻ります。台風の年間発生数の平年値は26.7個なので、約5年間で台風の名前が一巡することになります。」
さて、今回は沖縄の歴史を学ぶには欠かせない方。沖縄学の父についてお話しします。
伊波 普猷(いは ふゆう)
生1876年(明治9年)3月15日 - 亡 1947年(昭和22年)8月13日)
沖縄県那覇市出身の民俗学者、言語学者、沖縄学の父として知られる。
経歴
1876年3月15日、伊波普猷は琉球藩那覇西村(現在の那覇市西)に父普済・母マツルの長男として出生まれる。
1903年(明治36年)、第三高等学校を卒業した後、東京帝国大学で言語学を専攻する。帝大では、橋本進吉、小倉進平、金田一京助らの学友とともに、新村出の講義を聴講している。
帰郷後、沖縄県立図書館の館長を務める。沖縄研究資料の収集に尽力した。
歴史学者の比嘉春潮とともに、エスペラント学習活動を、教会では聖書の講義などを行った。
弟伊波月城は、沖縄毎日新聞の新聞記者として文明開化の為に活動した。
学問の領域は広大で、沖縄研究を中心に言語学、民俗学、文化人類学、歴史学、宗教学など多岐に渡る。その学問体系によって、後に「沖縄学」が発展し、「沖縄学の父」とも称された。
『おもろさうし』研究への貢献は多大で、琉球と日本とをつなぐ研究を行うと共に、琉球人のアイデンティティの形成を模索した。「日琉同祖論」はその探究の一つである。しかし、例えば鳥越憲三郎は『琉球宗教史の研究』において、伊波の「琉球研究の開拓者としての功績は大いに讃えられて然るべきである」と評する一方、その研究について「文献に偏重し、加うるに結論を出すに急であったために、幾多の論理的飛躍と誤謬とを犯したことも事実である」と指摘している。
また、伊波の思想の欠点は、近代日本が産み出した沖縄差別への批判が弱かったことで、そのため、沖縄人としての生き方に誇りをみいだすことにおいて、一定の成果をあげたが、結果として天皇制国家に沖縄をくみこむための政策に利用されることになった。
民俗学者の柳田國男や折口信夫、人類学者の鳥居龍蔵、思想家・経済学者の河上肇らと親交があった。そして、友人の東恩納寛惇が浦添城跡の顕彰碑に刻んだ言葉が伊波を物語る。
彼ほど沖縄を識った人はいない 彼ほど沖縄を愛した人はいない 彼ほど沖縄を憂えた人はいない 彼は識ったが為に愛し愛したために憂えた 彼は学者であり愛郷者であり予言者でもあった。
台風1号がフィリピンで発生したと先週新聞で読んだんですが、今年は台風の被害が少ない年なのか?多い年になるのか?
でも、台風って楽しくないですか?うちは、台風が来ると毎回とーちゃんがヒラヤーチィーをつくってくれて、それが楽しみだったな(笑)
あっ台風の仕組みを少し紹介。
「台風には従来、米国が英語名(人名)を付けていました、北西太平洋領域で発生する台風防災に関する各国の政府間組織である台風委員会(日本ほか14カ国等が加盟)は、平成12年(2000年)から、北西太平洋領域で発生する台風には同領域内で用いられている固有の名前(加盟国の言葉で動植物や自然現象に関係する名前)をつけることになりました。」
どうりで、アジアンな名前の台風が多いわけですね。(笑)
アジア圏各国+米国の動植物(現地名)でいこうってわけなんです。
「平成12年に台風第1号にカンボジアで「象」を意味する「ダムレイ」の名前が付けられ、以後、発生順にあらかじめ用意された140個の名前を順番に用いて、その後再び「ダムレイ」に戻ります。台風の年間発生数の平年値は26.7個なので、約5年間で台風の名前が一巡することになります。」
さて、今回は沖縄の歴史を学ぶには欠かせない方。沖縄学の父についてお話しします。
伊波 普猷(いは ふゆう)
生1876年(明治9年)3月15日 - 亡 1947年(昭和22年)8月13日)
沖縄県那覇市出身の民俗学者、言語学者、沖縄学の父として知られる。
経歴
1876年3月15日、伊波普猷は琉球藩那覇西村(現在の那覇市西)に父普済・母マツルの長男として出生まれる。
1903年(明治36年)、第三高等学校を卒業した後、東京帝国大学で言語学を専攻する。帝大では、橋本進吉、小倉進平、金田一京助らの学友とともに、新村出の講義を聴講している。
帰郷後、沖縄県立図書館の館長を務める。沖縄研究資料の収集に尽力した。
歴史学者の比嘉春潮とともに、エスペラント学習活動を、教会では聖書の講義などを行った。
弟伊波月城は、沖縄毎日新聞の新聞記者として文明開化の為に活動した。
学問の領域は広大で、沖縄研究を中心に言語学、民俗学、文化人類学、歴史学、宗教学など多岐に渡る。その学問体系によって、後に「沖縄学」が発展し、「沖縄学の父」とも称された。
『おもろさうし』研究への貢献は多大で、琉球と日本とをつなぐ研究を行うと共に、琉球人のアイデンティティの形成を模索した。「日琉同祖論」はその探究の一つである。しかし、例えば鳥越憲三郎は『琉球宗教史の研究』において、伊波の「琉球研究の開拓者としての功績は大いに讃えられて然るべきである」と評する一方、その研究について「文献に偏重し、加うるに結論を出すに急であったために、幾多の論理的飛躍と誤謬とを犯したことも事実である」と指摘している。
また、伊波の思想の欠点は、近代日本が産み出した沖縄差別への批判が弱かったことで、そのため、沖縄人としての生き方に誇りをみいだすことにおいて、一定の成果をあげたが、結果として天皇制国家に沖縄をくみこむための政策に利用されることになった。
民俗学者の柳田國男や折口信夫、人類学者の鳥居龍蔵、思想家・経済学者の河上肇らと親交があった。そして、友人の東恩納寛惇が浦添城跡の顕彰碑に刻んだ言葉が伊波を物語る。
彼ほど沖縄を識った人はいない 彼ほど沖縄を愛した人はいない 彼ほど沖縄を憂えた人はいない 彼は識ったが為に愛し愛したために憂えた 彼は学者であり愛郷者であり予言者でもあった。
沖縄学の父、彼の墓に行ってきました。場所は浦添の高台にあります。浦添ようどれが近くにあり、沖縄の歴史が詰まった空間そんなきがしました。
墓の前には看板があり、彼の功績の説明か書かれてました。
墓も綺麗で公園の管理がゆき届いた素晴らしい場所だと感じました。
伊波普猷が、調べ後世に広めた、琉球の歴史を広く紹介できるように自分もこれからも学ぶ心を忘れず頑張っていきます。
次回は、金丸に会いに行ってみたいと思います。
墓の前には看板があり、彼の功績の説明か書かれてました。
墓も綺麗で公園の管理がゆき届いた素晴らしい場所だと感じました。
伊波普猷が、調べ後世に広めた、琉球の歴史を広く紹介できるように自分もこれからも学ぶ心を忘れず頑張っていきます。
次回は、金丸に会いに行ってみたいと思います。