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沖縄の偉人を訪ねて

はいさい ぐす〜よ ちゅうがなびら☻

今回は、琉球民謡の祖であり、琉球王朝最盛期の尚真王の時代に活躍した吟遊詩人「赤犬子 あかいぬこ」、 かれを訪ねました。彼は、三線の元になった楽器の開発者とも言われおり、沖縄全島に三線を広めたとされております。


写真は、読谷村字楚辺にある赤犬子宮にきました。







ここでは、旧暦の9月15日になると、楚辺集落を練り歩きこの赤犬子宮にて五穀豊穣を祈願します。奉納の舞「イリベージ」を奉納します。
では、ここが?彼の墓になるのかと??違うんです。彼の墓は楚辺集落を抜け、公民館近くのユウバンタと呼ばれる場所ありました。






それと、彼にまつわる言い伝えをここで紹介します。
 昔むかし、楚辺/すび村に、赤犬子という名の人がいたそうです。どうして赤犬子と名がついたかというと、赤犬子の母は幼い時から、ある男と夫婦になりなさいと、親達たちの約束で結婚んが決っていました。
 ところが赤犬子の母は、余に容姿容貌が美しく、楚辺村どころか、隣の大湾/うーわん、古堅/ふるぎん、大木辺りの男から、目めを付つけられていました。
 しかしこの女性は、決けっして他の男には心を動かさず、婚約者である若者のだけを一途に愛していました。
 ある時、見向もされない男達は、集まって相談しました。あの婚約者の男を殺さない限り、彼女が自分達のものになることはないという話しになり、男を殺してしまったのでした。
 赤犬子の母は、自分の夫になる筈だった若者が殺れたと聞と、毎日鬱がちになり、人を避さけて交わらなくなりました。
 ところでこの女性には、日頃から大層可愛いがっている、赤犬がいました。毎日、赤犬を連れてあちこちに出掛け、彼女は、気持ちを紛らわしていました。
 その年は、たいそうな旱魃の年で、全っく雨が降らず、人々はとても困っていました。
 女性がいつものように、赤犬を連れて散歩していると、急に止める間まなく、赤犬は、楚辺暗川/すびくらがーという所の洞窟に、入ってしまいました。そして、体全体がびしょ濡れになって、戻って来たそうです。不思議に思った女性いは犬を追って入ってみると、洞窟の中には泉があり、水が流れていたそうです。これを見た女性は、村の人々に知らせ、それから後、楚辺村が水不足になる事はなかったそうです。これが、赤犬子が発見した楚辺暗川の話です。
 さて、婚約者を殺されてしまった赤犬子の母ですが、既に婚約者の子を身籠っていました。そして子を生ましたが、夫になる人が亡くなってから子が産れたため、周囲の若者達は、あの子は婚約者の子ではなく、連れ歩るいている赤犬の子だ等と、まことしやかに言いふらしたのでした。それで、赤犬子と呼ばれるようになりました。
 この赤犬子が、若者のに成長した時、屋根から流がれる雨垂れの音を聞いて、三線を作くったという言い伝たえがあります。そしてその後ち、赤犬子は三線を弾ひきながら、国々を回て歩いたそうです。
 ある時、赤犬子が、国頭の方へ行った、帰かえりの話はなしです。瀬良垣を通とおると、船大が昼食ちゅうしょくをとっていました。余あまりに空腹だった赤犬子が、食べ物を少し分けて下さいとお願ねがいしましたが、お前まえのような赤の他人に分わけてやる物もなどないと、追おい返されてしまいました。
 その時ときに赤犬子あかいんこが指差ゆびさした舟を詠よんだ歌うたが「瀬良垣水舟」だそうです。
 次つぎに谷茶たんちゃまで来くると、同おなじように、船大工が昼食くをとっていました。空腹の赤犬子が、食べ物を少し分て下さいとお願ねがいしたところ、ひもじいのなら食べなさいと、食事を分けて貰いました。
 その時に赤犬子が指差さした舟を詠んだ歌が、「谷茶速舟」だそうです。
 それからというもの、瀬良垣の舟はよく沈み、速度も遅く、谷茶たんちゃの舟はよく走る上に早かったそうです。
 赤犬子が予言した通になりました。
 すると瀬良垣の人達は、「赤犬子のせいで、こうなった。捜がし出したいとて殺せ。」と言い、棒や刀かた持って楚辺村にやって来きました。
 現在、赤犬子神社(※赤犬子宮アカナクー)が楚辺村にありますが、そこまで追おい詰つめられると、赤犬子は急に煙りとなって消え、天に昇ぼっていきました。そのため、赤犬子は神の子で、精霊だったに違いないと伝たわっています。
 それから、中城なでの話しも残っています。
 赤犬子は、中城の安谷屋を旅していました。とても喉が渇いたので、通りがかった子どもに、大根をくれないかと言うと、持っていた大根の葉を取り、皮も剥いで、食べやすく切ったものを、どうぞと言って赤犬子に渡たしました。「この子どもはきっと偉い人になるだろう。」と赤犬子が言ったところ、その子どもは、後の中城若松(※「安谷屋の若松」とも。玉城朝薫が作った組踊「執心鐘入/1719年」の主人公のモデルの人物)になったと言われています。
 それから、北谷での話しも残こっています。
 ある時、赤犬子が歩いている時、喉が渇き、ある家で、水を飲ませて下くまさいとお願いにいったところ、家の者は殆ど出払っていて、子どもが一人だけ残こっていて、水を運はこんで来きてくれました。水を飲んでから、「お父様は、何処どこに行かれたのですか。」と聞いてみると、「夜の目を取りに。」という返事が返ってきました。「では、お母様は」と聞きいてみると、草を取とに。」と言います。
 聞いた赤犬子は、意味がわかりませんでしたが、後あとで分かったのは、夜の目めというのは、イザリに使つかうトゥブシの事ことで、松のトゥブシを取りにという意味なのでした。冬青草、夏枯草というのは、麦の事のようでした。なる程、麦は冬は青く、夏は枯れます。
 それがわかった後、再たび赤犬子がその家に行った時、家の人に言いました。
 「あなた達の子どもが言う事ことは、ただ事ごとではありません。この子こは育そだちが良い上に賢く、後々は高官にまでのぼる子ですが、出来ば坊主にするとよいでしょう。」と。
 すると赤犬子が言う通り、その子は成長して坊主なり、後に、北谷長老(※愛称あいしょう/南陽紹弘禅師という臨済宗妙心寺派の名僧)になったと言われています。
 これらが、赤犬子の話はなしとして、伝たわっております。
  
※この話の参考とした話
①沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村字長浜~『長浜の民話』読谷村民話資料3
②沖縄本島・沖縄県国頭郡宜野座村松田~『宜野座村の民話』下巻〈伝説編〉
③沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村伊良皆~『伊良皆の民話』読谷村民話資料1
④沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村瀬名波~『瀬名波の民話』読谷村民話資料4
⑤同上~『渡慶次の民話』読谷村民話資料7

今日の沖縄の音楽、魂となった三線が読谷村から広がったことを讃え、毎年三線の日(3月4日)には読谷を始め沖縄全島で演奏を奏でる大イベントが開催されております。

次回は、琉球最後の王のお話しをしたいと思います。



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