沖縄の偉人
沖縄の偉人を尋ねて
はいさい ぐす〜よ ちゅうぅがなびら
寒いですね、巷ではノロウイルスやロタウイルス、インフルエンザ、新型まで流行り病が蔓延。手洗い うがい マスクの着用 消毒など常日頃から健康管理していきましょう。そういう私は(T ^ T)先週から原因不明の目の腫れに悩まされているんですが…
さて、今回は沖縄の偉人についてです。できれば彼のゆかりの地を訪ねたかったんですが目の件もあり、遠出ができず時間が空いた際に尋ねて行こうとおもいます。
⚫️高嶺 徳明(たかみね とくめい)
17世紀中盤から18世紀前半にかけて活躍し、日本初の全身麻酔手術に成功した琉球の名医です。皆さんしってましたか?私は調べてビックリしました。
昭和56年、当時の弘前大学助教授・松木明知氏は、日本最初の全身麻酔医手術は、1689年、琉球王国の医師、高嶺徳明によって行われたと調査、発表しまし医学界に注目をあびました。
これまで日本初と言われた、1804年の紀州和歌山の医師、華岡青洲の手術よりさかのぼること115年前になるのです。
幼少のころから語学の才能に秀でていた徳明は、総官という進貢船の事務職をつとめ、中国と琉球を往来するという生活を続けていました。
当時、国王尚貞の孫・尚益は、生まれながらの欠唇の持ち主でした。 徳明36才の時、福州で中国人医師・黄会友(こうかいゆう)が補唇治療を行っている事が進貢使節の耳に入り、中国語を完璧に理解する徳明に、補唇の技術を取得することが命じられます。徳明は黄会友に懇願して弟子入りを果たし、秘法と秘伝の巻物を授けられて帰国します。1689年11月に、尚益の手術をとり行いました。手術は大成功で、尚益の子供ですら傷跡に気付かなかったと言われています。
『琉球王国 人物列伝』より抜粋
さらに、詳しく調べた内容を記載して行きます。
寒いですね、巷ではノロウイルスやロタウイルス、インフルエンザ、新型まで流行り病が蔓延。手洗い うがい マスクの着用 消毒など常日頃から健康管理していきましょう。そういう私は(T ^ T)先週から原因不明の目の腫れに悩まされているんですが…
さて、今回は沖縄の偉人についてです。できれば彼のゆかりの地を訪ねたかったんですが目の件もあり、遠出ができず時間が空いた際に尋ねて行こうとおもいます。
⚫️高嶺 徳明(たかみね とくめい)
17世紀中盤から18世紀前半にかけて活躍し、日本初の全身麻酔手術に成功した琉球の名医です。皆さんしってましたか?私は調べてビックリしました。
昭和56年、当時の弘前大学助教授・松木明知氏は、日本最初の全身麻酔医手術は、1689年、琉球王国の医師、高嶺徳明によって行われたと調査、発表しまし医学界に注目をあびました。
これまで日本初と言われた、1804年の紀州和歌山の医師、華岡青洲の手術よりさかのぼること115年前になるのです。
幼少のころから語学の才能に秀でていた徳明は、総官という進貢船の事務職をつとめ、中国と琉球を往来するという生活を続けていました。
当時、国王尚貞の孫・尚益は、生まれながらの欠唇の持ち主でした。 徳明36才の時、福州で中国人医師・黄会友(こうかいゆう)が補唇治療を行っている事が進貢使節の耳に入り、中国語を完璧に理解する徳明に、補唇の技術を取得することが命じられます。徳明は黄会友に懇願して弟子入りを果たし、秘法と秘伝の巻物を授けられて帰国します。1689年11月に、尚益の手術をとり行いました。手術は大成功で、尚益の子供ですら傷跡に気付かなかったと言われています。
『琉球王国 人物列伝』より抜粋
さらに、詳しく調べた内容を記載して行きます。
徳明の生きた時代の琉球は、島津氏の支配下にあり、日本と中国(当時は明国)の両国に進貢していました。
1663年、進貢団の一員として徳明は中国の 福洲に渡っりました。わずか10歳の時であった。帰国するまでの3年間で中国語をなに不自由 なく話せるようになっていたそうです。
1688年、通事として4度目の中国(当時は清明)への旅の時、徳明とともに進貢団の一員として琉球館に滞在していた大嶺詮雄が、義兄与那嶺の欠唇の手術 に立ち会ったという話が伝わってきた。与那嶺は進貢団の船頭の1人で、生来の欠唇で悩 んでいたというが、手術を受け、4日間で全治し、大変な喜びようであったそうで、この話を聞いた進貢団の代表4人(四貢使)は非常に驚き、かつ喜んだ。もしこの話が事実ならば尚益の欠唇も直すことができる。四貢使は大いに期待して大嶺を呼び出して聞いたところ、事実であるということが確かめられた。
しかし、大嶺は欠唇の手術について詳しく答えることができなかった。この吉報を耳にしながら、尚益のためになることが何もできないとあっては申し訳ない。
何か良い方法はないか。四貢使は、知恵をしぼって考えた末、徳明にこの医術を習得させようという結論に達した。
徳明の卓越した語学力と明敏さに信頼をおいたのである。彼らはすぐに徳明を呼び、その旨を伝えた。
「高嶺よ、そちもこのたびの与那嶺の話、耳に致しておろうな。まさに吉報じゃ。」
「はい、まことにうれしき知らせにございます。」
「さればじゃ、高嶺、我ら一同この話、尚益のおんためにいかにすれば良いか知恵をしぼった。そして、そちに望みをつないだのじゃ。高嶺よ、かの医師に会い、なんとしてもこ こ えとくの医術伝授を乞うて会得して参れ。」
「お待ちくださいませ、ご正使様。いかなるご奉公もいといは致しませんが、この儀ば かりは、お許し下さりませ。私は医者ではございませぬ。医者でもない者にこのようなご 命令、ひらにご容赦くださりませ。」
「高嶺よ、我らとて思いは同じじゃ。そちが医者でないことは重々承 知のうえよ。このような重大事、誰に命ずることができようか。そち なればこそ我ら一同、この重大事を託することができる。高嶺、励め よ。必ず会得して参れ。」
徳明は、力にあまるこの申し渡しに対し、答える言葉を失った。彼はしばらくの間でよいから考える時間が欲しいと願い、許されて帰る道すがら、さらにそ の夜、一晩考えぬいた。 (わしは医者ではない。このような大事を引き受けるわけにはいかぬ。もし、万一のこと あれば死んでおわびをしたとて何になろう。取り返しのつかぬことじゃ。誰か、誰かわし に代わってくれる者はおらぬか。おお、そうじゃ、大嶺がおる。いや、大嶺も医者ではない。このような重荷を負わせるわけには参らぬ。だれか琉球人の医者はおらぬか。ああ、 わしはどうすればよいのじゃ。)苦しい時が過ぎた。しかし、徳明ははっきりと心を決めていた。 (自分がこの任を果たさねばならぬ。自分の力にあまる仕事をせねばならぬ苦しみ、他の者にさせてはならぬ。わしがこの苦しみから逃れたならば、代わりの者が苦しむことにな ろう。力に余る仕事なれど、一世一代のご奉公、力を尽くし努力しょうぞ。)決心した徳明は、その日のうちに医者に会うために出発した。
その医者は、帰郷のためすでに船中にあったが、徳明の熱意に負けて宿に引き返した。 彼は名を黄会友といい、先祖伝来のこの医術で多くの人々の欠唇の治療をしていた。 「この医術は一世一伝であり、他の者には決して伝授してはならぬ。」 と、補唇術は先祖の遺命であるとして、徳明に伝授することを拒んだ。 「先生、先生の仰せのことよくわかりまする。それを承知の上でお願い申し上げてござい ます。琉球にも同じ病気で苦しんでいる者がございます。一人でも多くの病気を治してあ げたいのです。どうか補唇の術、私にご教授くださりませ。」
黄会友は、徳明の人格と誠意あふれる願いに心を打たれ、補唇術を伝授することにした。 その日から徳明は、昼も夜も師のそばを離れず、寸暇を惜しんで学んだ。そして、学び始 めて20日目に、徳明は師の面前で13歳の少年の欠唇の手術をして成功した。
徳明の一行は、1689年5月に帰国した。この朗報は、すぐに尚益の父、尚純にもたらされた。尚純は、喜びのうちにも慎重にことを運んだ。気候風土が 中国と違うこの琉球でも、徳明の医術は通用するか研究させたので ある。その結果、全く心配のないことが確認され、同年11月、徳明は大嶺を協力者に、城中で尚益の手術を行い成功した。尚益の欠唇は、見事に完治したのである。その手術の際、徳明は全身麻酔を使用したが、これは華岡 青洲に先立つこと100年余りも前のことであり、日本で最初の全身麻酔による手術であった。
琉球の行った、他国との交易により多くの技術や文化が流れ引き継がれ今日の沖縄の石杖になってきてると感じました。
次回は、最近読谷村(日本一人口の多い村)で行われた泰期まつりの主人公について紹介して行きたいと思います。
1663年、進貢団の一員として徳明は中国の 福洲に渡っりました。わずか10歳の時であった。帰国するまでの3年間で中国語をなに不自由 なく話せるようになっていたそうです。
1688年、通事として4度目の中国(当時は清明)への旅の時、徳明とともに進貢団の一員として琉球館に滞在していた大嶺詮雄が、義兄与那嶺の欠唇の手術 に立ち会ったという話が伝わってきた。与那嶺は進貢団の船頭の1人で、生来の欠唇で悩 んでいたというが、手術を受け、4日間で全治し、大変な喜びようであったそうで、この話を聞いた進貢団の代表4人(四貢使)は非常に驚き、かつ喜んだ。もしこの話が事実ならば尚益の欠唇も直すことができる。四貢使は大いに期待して大嶺を呼び出して聞いたところ、事実であるということが確かめられた。
しかし、大嶺は欠唇の手術について詳しく答えることができなかった。この吉報を耳にしながら、尚益のためになることが何もできないとあっては申し訳ない。
何か良い方法はないか。四貢使は、知恵をしぼって考えた末、徳明にこの医術を習得させようという結論に達した。
徳明の卓越した語学力と明敏さに信頼をおいたのである。彼らはすぐに徳明を呼び、その旨を伝えた。
「高嶺よ、そちもこのたびの与那嶺の話、耳に致しておろうな。まさに吉報じゃ。」
「はい、まことにうれしき知らせにございます。」
「さればじゃ、高嶺、我ら一同この話、尚益のおんためにいかにすれば良いか知恵をしぼった。そして、そちに望みをつないだのじゃ。高嶺よ、かの医師に会い、なんとしてもこ こ えとくの医術伝授を乞うて会得して参れ。」
「お待ちくださいませ、ご正使様。いかなるご奉公もいといは致しませんが、この儀ば かりは、お許し下さりませ。私は医者ではございませぬ。医者でもない者にこのようなご 命令、ひらにご容赦くださりませ。」
「高嶺よ、我らとて思いは同じじゃ。そちが医者でないことは重々承 知のうえよ。このような重大事、誰に命ずることができようか。そち なればこそ我ら一同、この重大事を託することができる。高嶺、励め よ。必ず会得して参れ。」
徳明は、力にあまるこの申し渡しに対し、答える言葉を失った。彼はしばらくの間でよいから考える時間が欲しいと願い、許されて帰る道すがら、さらにそ の夜、一晩考えぬいた。 (わしは医者ではない。このような大事を引き受けるわけにはいかぬ。もし、万一のこと あれば死んでおわびをしたとて何になろう。取り返しのつかぬことじゃ。誰か、誰かわし に代わってくれる者はおらぬか。おお、そうじゃ、大嶺がおる。いや、大嶺も医者ではない。このような重荷を負わせるわけには参らぬ。だれか琉球人の医者はおらぬか。ああ、 わしはどうすればよいのじゃ。)苦しい時が過ぎた。しかし、徳明ははっきりと心を決めていた。 (自分がこの任を果たさねばならぬ。自分の力にあまる仕事をせねばならぬ苦しみ、他の者にさせてはならぬ。わしがこの苦しみから逃れたならば、代わりの者が苦しむことにな ろう。力に余る仕事なれど、一世一代のご奉公、力を尽くし努力しょうぞ。)決心した徳明は、その日のうちに医者に会うために出発した。
その医者は、帰郷のためすでに船中にあったが、徳明の熱意に負けて宿に引き返した。 彼は名を黄会友といい、先祖伝来のこの医術で多くの人々の欠唇の治療をしていた。 「この医術は一世一伝であり、他の者には決して伝授してはならぬ。」 と、補唇術は先祖の遺命であるとして、徳明に伝授することを拒んだ。 「先生、先生の仰せのことよくわかりまする。それを承知の上でお願い申し上げてござい ます。琉球にも同じ病気で苦しんでいる者がございます。一人でも多くの病気を治してあ げたいのです。どうか補唇の術、私にご教授くださりませ。」
黄会友は、徳明の人格と誠意あふれる願いに心を打たれ、補唇術を伝授することにした。 その日から徳明は、昼も夜も師のそばを離れず、寸暇を惜しんで学んだ。そして、学び始 めて20日目に、徳明は師の面前で13歳の少年の欠唇の手術をして成功した。
徳明の一行は、1689年5月に帰国した。この朗報は、すぐに尚益の父、尚純にもたらされた。尚純は、喜びのうちにも慎重にことを運んだ。気候風土が 中国と違うこの琉球でも、徳明の医術は通用するか研究させたので ある。その結果、全く心配のないことが確認され、同年11月、徳明は大嶺を協力者に、城中で尚益の手術を行い成功した。尚益の欠唇は、見事に完治したのである。その手術の際、徳明は全身麻酔を使用したが、これは華岡 青洲に先立つこと100年余りも前のことであり、日本で最初の全身麻酔による手術であった。
琉球の行った、他国との交易により多くの技術や文化が流れ引き継がれ今日の沖縄の石杖になってきてると感じました。
次回は、最近読谷村(日本一人口の多い村)で行われた泰期まつりの主人公について紹介して行きたいと思います。