沖縄の偉人
沖縄の偉人を訪ねて
はいさい ぐす〜よ ちゅうがなびら
今回は、沖縄(琉球)の偉人を訪ねて野國總管と共に沖縄産業の貢献者、儀間真常についてお話します。
⚫️儀間真常(ぎま しんじょう、嘉靖36年(1557年) - 順治元年10月14日(1644年11月13日))は琉球王国第二尚氏王統の人。唐名は麻平衡(まへいこう) 、童名を真市といい、麻普蔚・大城按司真武の後裔にあたり、麻氏大宗家の六世である。
いわゆる琉球の五偉人の一人で、琉球王朝の産業の基礎を築いた人物である。
業績は、1605年に野國總管が中国から持ち帰った蕃薯(今日でいうサツマイモ)を琉球各地に広めたほか、薩摩から木綿種を持ち帰りその栽培と木綿織りを始め、琉球絣の基礎を築いた。そして、砂糖(ただし当時の砂糖は黒砂糖を意味する)の製法を伝播せしめたことなどがある。うち砂糖は、その後の琉球の経済を支える重要産物となった。
「蕃薯」は、のちに薩摩藩をへて日本全国へと広がっていったため、現代では名称としても「サツマイモ」としてよく知られているが、それが琉球から伝わったことや、その端緒を開いた野國總管や儀間真常の名はあまり知られていない。
産業の恩人を祀った世持神社(那覇市奥武山町)では、蔡温(具志頭親方文若)とともに、儀間親方真常と野国総管の三人が祀られている。
墓所は那覇市首里崎山町。
系譜編集
父:麻時嘗・儀間親雲上真命の三男として生まれる(母は真鍋)。室に毛氏阿波根子盛懿の娘:真鍋をむかえ、一男一女をもうけた。嫡男が真常より先に亡くなったため、嫡孫:麻作愿・儀間親雲上真時が跡を継いだ。
首里崎山にあるお墓に行ってきました。
丘の上で、見晴らしも素晴らしい場所にありました。
墓も大きく、綺麗に整備されており彼の偉大さが強く感じました。
今回は、沖縄(琉球)の偉人を訪ねて野國總管と共に沖縄産業の貢献者、儀間真常についてお話します。
⚫️儀間真常(ぎま しんじょう、嘉靖36年(1557年) - 順治元年10月14日(1644年11月13日))は琉球王国第二尚氏王統の人。唐名は麻平衡(まへいこう) 、童名を真市といい、麻普蔚・大城按司真武の後裔にあたり、麻氏大宗家の六世である。
いわゆる琉球の五偉人の一人で、琉球王朝の産業の基礎を築いた人物である。
業績は、1605年に野國總管が中国から持ち帰った蕃薯(今日でいうサツマイモ)を琉球各地に広めたほか、薩摩から木綿種を持ち帰りその栽培と木綿織りを始め、琉球絣の基礎を築いた。そして、砂糖(ただし当時の砂糖は黒砂糖を意味する)の製法を伝播せしめたことなどがある。うち砂糖は、その後の琉球の経済を支える重要産物となった。
「蕃薯」は、のちに薩摩藩をへて日本全国へと広がっていったため、現代では名称としても「サツマイモ」としてよく知られているが、それが琉球から伝わったことや、その端緒を開いた野國總管や儀間真常の名はあまり知られていない。
産業の恩人を祀った世持神社(那覇市奥武山町)では、蔡温(具志頭親方文若)とともに、儀間親方真常と野国総管の三人が祀られている。
墓所は那覇市首里崎山町。
系譜編集
父:麻時嘗・儀間親雲上真命の三男として生まれる(母は真鍋)。室に毛氏阿波根子盛懿の娘:真鍋をむかえ、一男一女をもうけた。嫡男が真常より先に亡くなったため、嫡孫:麻作愿・儀間親雲上真時が跡を継いだ。
首里崎山にあるお墓に行ってきました。
丘の上で、見晴らしも素晴らしい場所にありました。
墓も大きく、綺麗に整備されており彼の偉大さが強く感じました。
⚫️真常はサツマイモを沖縄で普及させ、そのイモはさらに、江戸時代の日本にも伝わっり多くの人々を飢饉から救うことになりました。彼は偉大な人物なのですが、彼がなしとげた功績が100年の時を経て思わぬ結果をまねきます。それを蔡温が尻拭いをするはめになったという事実があったようです。
真常はサツマイモを普及させたほかに、琉球の産業振興のためサトウキビの新たな製糖法を導入したことでも有名です。
導入以前の琉球にもサトウキビは存在していたようですが、ごく少量でそれを商品化するまでにはいかなったようです。真常は中国(明)の福建からサトウキビを大量にしぼるための新技術を琉球に持ち込みました。みなさんのなかには沖縄観光の際、琉球村などで牛に引かせてサトウキビをしぼるローラー式の圧搾(あっさく)機をご覧になった方がいると思いますが、あれこそが真常が琉球に導入した新型ローラー式機械だったのです(現在の圧搾機は真常が導入したものから若干の改良がされてます)。
ローラー式圧搾機はもともとインドで考案され、16世紀後半に中国福建に伝わって改良をほどこされたもので、サトウキビの圧搾効率を飛躍的に高めた革新的な新技術でした。
真常は当時のハイテク機械であったローラー式圧搾機と、それにともなう生産システムを琉球に導入して、黒糖の大量生産を可能にしたわけです。
新製糖法の確立によって糖業は近世琉球の財政を支える 。
基幹産業となり、琉球産の砂糖は大坂市場にまで輸出されることとなりました。
ところが、すべてが順調にみえた状況から事態は思わぬ方向へ、黒糖の原料であるサトウキビ畑を増産するために各地で大規模な土地開発ブームが起こります。また木製ローラーの製作と黒糖を煮詰めるための燃料などを大量に必要としました。そこで、沖縄での森林伐採が進み、緑豊かな風景は一変し、木材の枯渇という深刻な事態をまねきました。真常の導入した新製糖法は、琉球史上初の「環境問題」を引き起こしたのです。
勿論、問題が起こるまでには、長い年月がかかりましたが、この環境問題の解決に取り組んだのが蔡温でした。
蔡温は「杣山(そまやま)政策」と呼ばれる森林育成の政策を実施して、やみくもに森林資源を消費するやり方を見直しました。もちろん環境問題の原因は真常だけにあるわけではなく、砂糖を増産して外貨を獲得しようとした王府にあり、真常を責めるものではなく、琉球の発展の後に意外な結果をもたらした問題と言えます。
現在何気なくしている事が、時を経てどのような結果をまねくことになるのか…
それは歴史のみぞ知る。
次回は、組踊の始祖と呼ばれた男に会いに行きたいと思います。